第十三回心霊廃墟OFF(奈良)

なんたる失態だ。私は慨嘆した。
釈明の余地のない失態である。
いや、といっても私に原因があるのではない。
そう、これは神の悪戯である。
だいたい私のような生真面目で誠実を絵に書いたような
人間が冒頭から嘆いているというこの事実。
それが今回の出来事が神の悪戯である証明となるのではないだろうか。
我々は小さな漁港で佇んでいる。
時計の針は10:55を指している。
戦争廃墟、友ヶ島行きのフェリーの出航は11:00である。
眼前に広がる青い海の向こうには、
トーチカや廃砲台や廃墟や神羅万象のハイなるものが眠っているというのに、、
何故、フェリーのチケット売り場までも眠っているんだ!!
これが神の悪戯と言わずしてなんと言えよう。
完全に閉じられた船着場の前で呆然とする我々に
一人の中年が声をかけてきた。
「おぅい、兄ちゃんら。友ヶ島行くんか?」
当然だ。さっさとフネを出せ。
「ありゃあ。桟橋工事があっからよ、フェリーでてないんやわ。」
だめだ、連れてけ、連れてけ。
「といっても、バレたらマズイでな」
しらない、連れてけ、連れてけ。
「ちょい、待ってな。フェリー会社の専務に電話するわ。」
はやく、連れてけ、連れてけ。
「だめだって、すまんなぁ。。。」
やだ、連れてけ、連れてけ。
やれ、彼は東京から来ただの、
ルールなぞどうでもいいではないですかだの、おじちゃんかっこいいだの
塔のような均質な論理から、泣き落としという名の情論までを使うのだが、
そもそも目的が密航なので、どの論理もあっという間に破綻する。
特にJC氏の落胆ぶりは激しかった。
しかし、近くに人形寺が会ったので
彼のここをは少し癒やされたようだ。

そして人形寺で浮かれた我々は今回の敗北を潔しとせずに
向かう先を奈良に急遽変更した。
そう、D鶴峯地下壕、攻略の時が来たのである。
前回は水浸しで侵入できなかったのであるが、今回はちがう。
連日の晴天。時間的制約、リルート潜入条件にあう場所はここしかない。
車中、新生活トークで盛り上がったついでに
廃モーテル、P村を制圧する。
そう、我々はどんなハプニングがあっても正常運転である。
そして、P村でごめんくださいと挨拶をし、しゃあしゃあとドアを開けるアーチストの姿を見て、
「ううむ、奴も成長したものじゃあ」と若きアングラの成長に驚嘆したのである。

そして奈良県に至り、D鶴峯地下壕に入る
そして前回通った獣道に入り、地下壕を目指すのだが
雑草が背丈を超えるのはあっというまの話であった。
枝を拾い、雑草をたたき壊しながら進む。
しかし、ますます雑草は密度を増し行く手を遮るのである。
全く、行ったことがなければ確実に撤退する。
藪と一体化するような歩みの中で、雑草まみれの道を超えると
股を開いた洞窟が穴を魅せつけていた。

うっひょぉぉおおおおおwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まさに神。いや神。
潜入するとこれまた深い深い深い深いwwwwww

壊れたアミダのように錯綜する横穴、竪穴を
縦横無尽に歩き狂う。
出口から見えるオレンジ色の夕日の光が私のちんぽを毟り取る。
そう、これまさに神の空間なり。
このD鶴峯地下壕であるが、当時の日本軍がノリノリで手掘ったらしい。
というか、手彫りなのに60年クラスで残存するってもうどうゆうことかと。
石見銀山でも手掘りの洞窟はあったが
深さ、幽玄さ、狂気、全てにおいて、D鶴が突出している。
にも関わらず、負の遺産ということで無かった事にしようとする行政の意識の低さに、
勢いどおりを感じるのである、

つーか、こっちを世界遺産にしろ。
そしては私はここまでのモノを作ってしまう戦争とはいかなるものかと考えた。
筒井康隆の馬の首風雲録の中の一文を要約すると
戦争とは、破壊と創造であると言っている。
火薬、飛行機、車、ロケット、そして原子爆弾。
すべて破壊するために創造された。
そして、破壊の後に新たな創造がある。
圧倒されるものは戦時中にしか生まれない。
この地下壕も平和な時代には絶対に生まれない狂気である。
この洞窟に潜入した幸福な達成感に包まれながらも、
戦争とは何かという、
新たな疑問がどくりどくりと私の中で浮かび上がってきたのである。
次回、第14回 心霊廃墟OFF 毒ガスとヒロシマ
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